2010年9月7日火曜日

会社設立10周年を迎えました

僕の前に道はない

僕の後ろに道は出来る

ああ、自然よ


父よ

僕を一人立ちにさせた広大な父よ

僕から目を離さないで守ることをせよ

常に父の気迫を僕に充たせよ

この遠い道程のため


この遠い道程のため

 これは、高村光太郎の「道程」という有名な詩です。
この“父”とは、一説では実父であり著名な彫刻家・高村光雲を指すものではなく“父なるもの=人間として超越した存在”を指すものだと言われています。

先月8月28日、最愛の母を亡くしました。
父が亡くなったのが昨年の12月20日。たった8ヶ月の内に両親が二人とも私の前から去って行ってしまいました。
父は経営者として師であり、私の道しるべであり、未来でした。
母は経営者の妻として、女性として、嫁として、母として、見本となるべき日常そのものでした。
父が亡くなってすぐ末期がんが発覚した母と、入院・在宅ホスピスの中で、母の人生の仕舞支度を一緒にしながら、「あぁ、なんてこの人は強い人なのだ」と思いを巡らせ、娘として「幕を引くという強さを必ず形に残そう」と懸命に戦った数ヶ月でした。
日常の存在がいなくなるというのは、“常”を失うということです。
梅干や、ぬか漬けや、日々の小言、家事のコツ、目上の方の常識等々…、亡くなった日のその瞬間から「あのお盆はどこにしまっていたっけ?」と小さな小さな“常”の実が大樹からポロポロと落ちていくことを実感しました。

今日、当社は丸10周年を迎えました。
今この瞬間ですら、10周年という月日も、社員やお取引先様やお客様がこれほどまでにサポートしてくれていることも、そして起業という道程を示し、陰日向となり支えてくれていた両親が不在の中でこの日を迎えることもとても信じられない気持ちです。

会社創業は2000年、私が23歳の時。
父から、「お前に人生最大の遊びをさせてやる」と言われました。
私に与えられた課題はただ一つ、「トヨタのGAZOOキャラクター商品でディーラーを盛り上げること」。
翌日から、トヨタ自動車のご担当の方からお電話を沢山頂きました。
トヨタ自動車は、法人としか取引できないと言われました。まず会社にしてから出直してきて下さいと。
もちろん、「会社を作る」なんてことがどんな意味を持つのか、これから訪れる困難や希望がどれほどあるのか、何一つ分かってはいない子供です。
私はすっかり「社長になる!」といい気になって、色々あるであろうことは全部父が揃えてくれるものだと思っていました。
けれど父は、私に「自分で考えなさい」と言うだけでした。

最初の壁は“会社って何?”でした。
会社の作り方と名のつく本をいくつか買い、有限会社と株式会社の違いや設立に至る手順などを読みあさりました。そこで分かったことは、まずお金がいるんだということでした。それもとてつもない大きなお金が。
当然23歳の女の子に株式会社を作るほどのお金があるわけもありません。当時、私は入社2年目のOLでしたから、手取りはそうですね・・・15万円ほどでしたでしょうか?
貯金などあるわけもありません。遊んでましたからね、合コンやクラブやデートばかりで。
「お金ないから会社できないみたい」と父に言いました。
その言葉=だからお父さん貸してよ(ちょうだいよ)です。

そして父が差し出したのは、お金ではなく、ベンチャー企業の社長を紹介するということでした。
その社長から、「起業するなら必ず身銭をきりなさい。人のお金に責任はもたない、自分のお金なら後戻りしない。」と言われました。
その時初めて50%以上の株式を保有する意味を教えられました。そして事業計画書を書き、銀行に融資をお願いするということを教わりました。

次なる壁は、設立をするということです。
会社は、粘度をこねて置物ができるように何か材料があるわけではない、最初は実態のないものです。
その時も父が私に差し出したのは、次なるベンチャー企業家と税理士でした。
その方々から司法書士、社会保険労務士、弁理士という存在を教えられ、一生懸命会社名を考えて何度も商号重複のため登記できない名前を経て、「株式会社アップデイト」が誕生しました。
その当時はまだ稀であった、インキュベーションビルに机を1つ借り、電話を1本引き、ノートパソコンを1台買い、ハンコヤドットコムで、“代表取締役の印”を作り、色々な意味不明な難しそうな書類にハンコをバンバン押しました。
代表取締役の印の重さが分かるのは、もっともっとずっと後の話です。

さて、困りました。
沢山借金があるのに、どうもOL時代とは違い毎月自然にお給料というのは入ってこないみたいなのです。
その時も父が私に差し出したのは、人でした。
営業なんてしたことないので、企画書の書き方と言う本を買って、営業ノウハウ本を買って、そしてスーツを買って、紹介されたお客様のもとへ行きました。
そこで出会った方は開口一番「応援してやる、コンテナ1本ぬいぐるみ持ってこい。」でした。
その方は今、私の最高のアニキ分であり、父のような存在です。
母の余命があと数日であろうと宣告された時、私はこの方に会いに行って、誰にも言わなかったことを吐露し、初めて号泣しました。泣き喚く3時間、その人はずっとそばで話しを聞き続けてくれました。その人との時間をとれるのは、通常2カ月後ぐらい。でも、その日は全ての夜の予定をキャンセルして私につきあってくれました。

会社もできましたし、営業もできました。
さて次なる壁は経理です。会社のお金ってどうやって管理するの?事業ってどうやってやっていくの?
ここから私は父から紹介された人ではなく、自分で人をたどるということをし始めました。
三井海上時代同期であった超頭のいい友人を毎夜仕事終了後に呼び出し、質問攻めです。
借金を返さなければいけなかったので、いつもピーピーの生活で、その友人がせっかく色々教えてくれているのに夕飯はいつも彼のおごりでした。
今は手の届かないような地位に上っていってしまったその彼も、変わらず私のそばで経営アドバイザーをしてくれています。
本当に、私はこの人がいなければ全てをあきらめてしまっていたに違いありません。

会社を経営し始めて、沢山の困難にぶちあたりました。
売れないということ、否定されるということ、あしらわれるということ、欺かれるということ。
「人」という一番大切な宝物を沢山父からもらっていたのに、それを当たり前だと勘違いしていた頃、周りの大人たちはしっかりと私の我欲や虚栄や驕りを見破っていたのですね。

ウツのように、毎朝ベッドから起き上がるのですらできない時期もありました。
そしてリストカットをしてしまおうと思ったこともありました。
毎日そんな私を見ていた母は、順調な時と変わらず私を起こし、朝ごはんを作り、小言を言いました。そして結婚式の時、手紙をくれました。
「女性の幸せを手に入れてくれてうれしい。でも、あなたの才能を決して捨てないで。」と。
会社というものは、始めたら終われない。
その道を歩幅は小さくても、こうして10年と言う月日を歩み続けられたのは、やはり父の道しるべと母の確信でした。

あぁ、とても長くなってしまいましたね。
生まれてくることに意味があるのなら、死ぬことにもきっと意味があるのだと私は思います。
この10年記念日に支えてくれていた両親がいないこと、このこと自体がとてつもなく大きなサポートなのだと信じています。
私は、社員を愛しています。お取引先様、お客様に日々感謝をしています。
ご指導頂く沢山の先輩達にはもう頭があがりません。
私は、とてもちっぽけです。
ちっぽけなまま、この遠い道程のため私は道を作ります。
両親がつけてくれた私の名前は、路子です。
「道路」になるために、道を作り続けます。どうぞみなさん、これからの道のりもよろしくお願いいたします。

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